終わりは面白い
終わりは面白いのである。
森羅万象は『終わる』ところが、とってもイイ。
人間を含む、生きとし生けるものに、『変化』と『終わり』はつきものだ。
もし、終わりがなかったら、どうだろう。
『クライマックス』の無いハリウッドアクション映画。
『大団円』のないジャッキー映画。
『けり』が印籠を出しても全然つかない水戸黄門。
『切り上げ』ることのない残業。
『終止符』を決してうたない安倍政権。
『オチ』のない吉本新喜劇。
なんか、やっぱりどこか気持ちが悪いわけで。
映画や本などでよく『永遠の命』に固執したり執着する、強欲の果てみたいな人間がでてくるけれど、最後はだいたい叶わずに終わる。
例えば、とっても面白くて引き込まれた小説のラストが、
「・・・ということで、男は、めでたく永遠の命を経て、末永く、いや、文字通り永遠に幸せに暮らしましたとさ。おしまい」
で終わっていたら、きっと10人中10人が、
(な…なんだこの終わり方はああ!!ふっざけないでよおおおお!!!!)
と、本を床に叩きつけるはずである。
つまらぬ。
終わらないのは、実につまらない。
特に生き物。生命にとって、永遠とはまこと、ブサイクなものである。
人は死ぬから美しい、などとクサいことを言うつもりはないというか、自分でも気持ち悪くなっちゃうのでそんなこと言えないけれど、
『永遠に死なない人生の中で、人が日々、面白みを感じて生きること』は、とても難しいとは思う。
いつか命が尽きる。そう思うから、その逆算ができるのだ。
死から逆算する発想を持つことで、人の心は(幸せに生きるために残りをどう使うか)を真剣に考えることができるんだと思う。
真剣に考えれば、それでいいのだ。
答えは、百人百様でかまわないと思う。
死ぬちょっと前までの『将来』に希望を見出だすのもよし。
死期など不明であるから『現在』に重点を置いて日々の満足度を上げるのもよし。
真剣に考えた結果、考えるのをやめて何もしない。だって別によいのである。
人が考えて出した『その時の全力の答え』に無駄に茶々を入れる人は、ただの下衆に成り下がる。
たとえそれが(あなたのために良かれと思って)でもである。
人気ネットラジオ『もてらじ』でも取り上げられていたけれど、(あなたのために良かれと思って)発想は、すでに歪みが生じている可能性が高いからだ。免罪符として悪用するのにはもってこいの発想なので、よい子のみんなはやめようね。悪い子はとことん悪用して応用して、教祖か政治家にでもなろうね♥
なんだか話がよく分からない感じになってきてしまったが、
とどのつまり、僕は『終わり』を美しいと感じているということだろう。
ビューティフルである。実にトレビアンでモナムールでハラショーだ。
※発言はすべてフィーリングで言ってます
「さよなら」という言葉も、けっこう好きだし、ポジティブな意味で「死」を想うのも好きだ。むしろその、(終わるんだからその間どうしよっかなぁ♥ウフフ)という死生観のみで生きている節もある。
だからというわけでもないけれど、
今回の記事で、このブログはおしまい。終わりです。
冬季はお休みのブログだからです。
インターネット上のあちこちで、墓場みたいになってるホームページや、土に還らないプラスチックみたいになって落ちているネットラジオのようになるのは、できるだけ避けたいので、一旦、店じまいです。
また来年の春から、新たに趣向を変えて、もう1年だけこのブログ集団、もてらじ村に参加させていただこうかと思っております。村長(?)であるぶたおさんや、てっちゃん、他の村民の方々や、読んでくださる読者の皆様、2016年もお世話になりました。ありがとうございます。また来年、どうぞよろしくお願いいたします。
ということで、地球も滅亡せず、僕も滅亡、または映画『カッコーの巣の上で』のラストのジャックニコルソンみたいになっておらずに無事であったならまた、2017年に。
ごきげんよう。